この日の大相撲中継の解説であった北の富士勝昭、実況アナウンサーの刈屋富士雄は、魁皇の勝ちであるように見えたと発言している。この相撲で魁皇は負傷し、取り直しの一番は一方的に白鵬の勝利。翌日から魁皇は休場した。翌13日目の琴欧洲、14日目の千代大海との取り組みに敗れ、横綱として初の連敗を喫し、この時点で3敗に後退して3連覇の可能性が断たれた。, 千秋楽は2002年9月場所の武蔵丸 - 貴乃花以来、実に4年10か月振りとなる横綱同士の対戦で朝青龍に寄り切りで敗れ、3連敗を喫し11勝4敗に終わった。, 翌9月場所は朝青龍が自身の不祥事の為に出場停止処分となり、実質1人横綱となった。初日に安馬(当時、後の日馬富士)に敗れ、中日までは安美錦を追う形となった。さらに11日目には豊ノ島に敗れ(自身初の金星配給)、新入幕の豪栄道に優勝争いのトップを明け渡してしまったものの、13勝2敗で横綱昇進後初となる通算4度目の優勝を果たした。, 9月場所直前、白鵬は出場停止となった朝青龍を気遣い、同情的なコメントを寄せている。8月23日には朝青龍の外出について感想を求められて「いいんじゃないですか?」と答え、朝青龍帰国に際しては「けがを治すなら、落ち着いてやるのがいい。体よりも心の痛みが強いと思う」と語った。, 11月場所では朝青龍の休場(出場停止)もあり、自身初の東横綱の座に就いたがこの場所も初日に琴奨菊に寄り切られて黒星スタートとなった。14日目に11勝2敗の相星対決で負かした大関千代大海が右肘負傷により千秋楽を休場するアクシデントが発生した為、取組を待たずに5回目の優勝が決まった。その千秋楽結びの一番の琴光喜戦では下手投げで裏返しにされて敗北し、祝勝気分に自ら水を差した格好になった。なお、日本相撲協会によれば千秋楽に優勝を争う一方の力士が休場することによって幕内最高優勝が決まったのは、1927年(昭和2年)10月の不戦勝制度適用以来初めてのことだった。また同2007年、自身初となる年間最多勝(74勝16敗)を受賞した。, 2008年1月場所、この場所から茶色の締め込みに変更する。初日から好調で優勝争いのトップを走った。そして西横綱朝青龍も白鵬に並走し、2002年9月場所の武蔵丸 - 貴乃花以来となる東西横綱同士で13勝1敗同士の相星決戦となった。注目の一番は白鵬が朝青龍を得意技の左上手投げで下し、14勝1敗で3場所連続6度目の優勝を決めた[17]。, 3月場所では4日目の平幕安美錦戦で早くも土がつき、12日目も千代大海に敗北、それまで全勝の朝青龍に引き離されていた。しかし朝青龍が12日目と13日目で土がつき、14日目の時点で両横綱共に12勝2敗で並んだため、1995年3月 - 5月場所の貴乃花 - 曙戦以来、約13年ぶりの2場所連続の千秋楽横綱相星決戦となった。結果は朝青龍に右小手投げで敗れ、4連覇を逃した[18]。, 5月場所は9日目まで全勝だったが10日目の安馬(現・日馬富士)戦で敗れた際に左足首を捻挫、その影響で優勝争いから脱落する。千秋楽結びの一番で、朝青龍に引き落とされて両手をついて敗れた後、横から駄目押しされたためか、白鵬が立ち上がり、朝青龍に右肩をぶつけ両者が睨み合うという事件を起こした。その翌日の5月26日、北の湖理事長は「悪いのは逆上した白鵬だ」との理由で、師匠の宮城野親方だけを国技館に呼び厳重注意したが、横綱審議委員らは「その直後に横綱同士が土俵の中で睨み合うのは喧嘩両成敗。朝青龍にも問題が有る」と提言。翌5月27日には当事者の白鵬と朝青龍に対し、それぞれ口頭で厳重注意の処分となった。その後白鵬は「横綱として非常に申し訳無かった。深く反省しています」と記者陣に対し謝罪していた(但し朝青龍からのコメントは一切無し)。, 7月場所は6日目から朝青龍の途中休場により1人横綱となったが、13日目に魁皇を下し7回目の優勝[19]、千秋楽には琴欧洲を上手投げで破り横綱昇進後初となる通算2度目の全勝優勝を果たした[20]。これで各場所すべて優勝(全6場所制覇)を成し遂げたことになる(歴代10人目、不知火型の横綱では初)。ちなみに歴代の不知火型の横綱で年6場所制になってからは、玉の海の優勝6回を上回り最多となり、昭和以降では年6場所制以前の羽黒山と並んだ。優勝制度が始まって以降の当時の最多記録は太刀山の9回だった。, 9月場所前の9月2日、アジアで初めて「ユネスコ・スポーツ・チャンピオン」の称号が授与された[21]。翌9月3日、第2子(長男)が誕生。, 9月場所は3日目の東前頭筆頭の琴奨菊との取り組みで左上手投げで勝ったが、立合い直後の「琴奨菊の手つき不十分」として放駒審判長(元大関・魁傑)から「待った」がかかっていた(これは行司も気づかなかった)。やり直しの一番も寄り倒しで制し、“1日2勝”することとなる[22]。5日目に稀勢の里に横綱になって初めて敗れ、19で連勝はストップし金星を与える[23]。14日目に、自分の取組前に安馬と琴光喜が敗れ、結びの一番で琴欧洲と対戦、上手投げで相手を屠って8回目の優勝を決めた。また同時に、年間勝利数が2位の安馬と16勝差となり、11月場所を残して2年連続2回目の年間最多勝(2008年は79勝)を決めた[24]。千秋楽も琴光喜を破り、14勝1敗で9月場所を終えた。, 11月場所は初日に安美錦に敗れるスタート[25]。この場所の序盤は相撲内容が良くなく、苦しみながら勝つという状況が続いて、12日目に大関昇進を目指す安馬に敗れた[26]。優勝争いは千秋楽の本割終了時点に於いて13勝2敗で安馬と並び、優勝決定戦となった。決定戦では両者白熱した攻防の末、白鵬が上手投げで安馬を下し、3場所連続9回目の優勝を果たした。この優勝で、歴代の不知火型の横綱では史上最多タイの優勝回数となった[27]。, 1月場所は初日から9連勝で4場所ぶりの土俵となった朝青龍と並んでいたが、10日目に日馬富士(当時新大関・安馬から改名)に敗れて朝青龍にリードを許した[28]。その後も全勝の朝青龍との星1つの差は変わらず、優勝争いはこの2者に絞られていった。千秋楽の本割では朝青龍を寄り倒して、14勝1敗同士の優勝決定戦に持ち込んだが、優勝決定戦で朝青龍に寄り切りで敗れて4連覇を逃した[29]。, 3月場所も朝青龍と熾烈な優勝争いを演じていた。10日目に朝青龍が日馬富士に敗れた後も単独トップを維持し、14日目に10回目の優勝を決めた。これにより、不知火型の横綱の最多優勝記録を更新した[30]。翌日の千秋楽も朝青龍を寄り切って自身3度目の全勝優勝で締めくくった[31]。, 5月場所は12日目まで日馬富士と全勝で優勝争いのトップを走っていた。13日目の全勝対決において裾払いで日馬富士を破り、33連勝になった[32]。この日の勝利で従来羽黒山が持っていた取り直し制度導入後の不知火型の連勝記録(32連勝)を更新した。だが、14日目の琴欧洲戦で、琴欧洲の上手投げを食らい、連勝記録は33で止まった[33]。千秋楽は朝青龍を寄り切って日馬富士と同成績の14勝1敗で優勝決定戦に臨んだが敗れて優勝を逃した[34]。しかし、千秋楽の白星で前年7月場所からの6場所間での勝ち星が85となり、年度にこだわらない任意の場所の連続6場所としては北の湖(1977年9月から1978年7月にかけて)に並ぶタイ記録を樹立した。, 7月場所は、11日目に琴光喜に敗れ1敗を喫するも[35]、13日目に同じく11勝1敗で並ぶ琴欧洲との直接対決を上手投げで制し単独トップに立つと[36]、そのまま千秋楽まで1敗を守り14勝1敗で11回目の優勝を決めた[37]。, 9月場所は6日目に平幕の翔天狼に初顔で金星を許して1敗[38]、その後14日目まで全勝の朝青龍を1差で追っていた。千秋楽結びの一番では朝青龍を寄り切って勝利。14勝1敗同士の優勝決定戦へもつれ込んだものの、決定戦では朝青龍に右掬い投げで敗れて、同年1月場所同様に逆転優勝はならなかった。この結果、2009年は東京場所での優勝を果たせなかった。また、年間3場所(1月・5月・9月)の決定戦での敗戦は史上初となった[39]。さらにこの3場所とも14勝1敗で優勝を逃しており、14勝1敗の成績で優勝できなかった横綱の場所数としては歴代最多となった。, しかし、先場所の時点で玉の海(1970年9月 - 1971年3月)や千代の富士(1988年5月 - 11月)と並んでいた「4場所連続14勝以上」の記録を、千秋楽の勝利で「5場所連続14勝以上」に延ばし、単独トップとなった。11月場所は14日目に琴光喜を上手投げで下し、12回目の優勝を決めるとともに年間勝ち星の新記録を達成した[40]。(この場所で同時に史上初の「6場所連続14勝以上」と「9場所連続13勝以上」を記録)更に翌日の千秋楽で朝青龍を左上手投げで下し、2005年に朝青龍が記録した年間最多勝記録84を2勝更新する86勝4敗の新記録を打ち立て、4度目の全勝優勝、九州場所3連覇で2009年を締めくくった[41]。同時に白鵬自身と北の湖がもつ、年度にこだわらない任意の場所の連続6場所での勝ち星85をも更新した。, 1月場所初日は、横綱土俵入りの所作に於いて、四股を自分の足元を見て踏む形に変更したことに気を取られたため、せり上がりを忘れるハプニングがあった。この日は2007年以来の天覧相撲となったが[42]、土俵入りは天皇・皇后の到着前だったため、大きな問題とはならなかった。, 7日目に把瑠都に敗れて連勝が30で止まり[43]、12日目に日馬富士に敗れて2008年11月場所以来となる2敗目を喫した[44]。翌13日目も2006年5月場所以降、本割で17連勝中だった魁皇に敗れ、久々の連敗で3敗となった。14日目は結び前の一番で琴欧洲に勝ったものの、朝青龍がその後結びの一番で日馬富士に勝利し、朝青龍に25回目の優勝を決められた。翌千秋楽の結びの一番、白鵬は朝青龍を寄り倒し朝青龍戦7連勝としたが、この一番が横綱朝青龍と本場所での最後の対戦となった[45]。, 1月場所後の2月4日に朝青龍が急遽現役引退を表明したため、3月場所からの番付は史上9人目の一人横綱となった。不知火型の横綱が番付上でも一人横綱となるのは、現在の型の元祖とされる太刀山以来、史上初のことである[46]。その2010年3月場所は、大関昇進を目指した関脇・把瑠都との優勝争いとなったが、11日目に把瑠都との全勝対決を制し[47]、その後も連勝を続けて15戦全勝で13回目の優勝を飾った。これによって12回優勝の双葉山と武蔵丸を抜いて、優勝回数が歴代単独6位となった[48]。ちなみに東横綱での全勝優勝は自身初。また地方場所での2年連続全勝優勝は史上初で、場所を問わない4年連続での全勝優勝達成は、双葉山、大鵬、北の湖に並ぶ記録である。, 5月場所も、把瑠都ら上位陣が星を落としていく中で連勝を続けた。そして独走の中で迎えた13日目に琴光喜を破り、輪島に並ぶ14回目の優勝を決めた[49]。14日目からは、輪島のトレードマークだった黄金色の締め込みで出場[50]。14日目は琴欧洲、千秋楽は日馬富士を退け、2場所連続6度目の全勝優勝を果たした。直近4場所で3度の全勝優勝は、15日制の下では初の快挙である。横綱昇進後の夏場所の優勝も初めてである(横綱の5月場所優勝自体2005年の朝青龍以来5年ぶり)。なお、横綱昇進後丸3年となるこの場所を終えた段階での横綱勝率は.900という近代の大相撲では驚異的な数字にまで達した。この14回目の優勝インタビューにおいて次の目標を聞かれ、「次は平成の大横綱、貴乃花関の記録に並びたい。その先は大鵬関の記録も追い抜きたい」と答えた[51]。優勝回数に関しては大鵬という大きな目標を出したが連勝記録については一切触れなかった事に関して、解説の北の富士は「連勝記録について何も言わなかったのは、彼自身、優勝は重ねていけても連勝を伸ばしていくのは難しいと実感しているからじゃないですかね。」と言っていた。, 2010年5月に起きた大相撲野球賭博問題に関連し、花札で金を賭けていたことを上申書で申告したが、賭け金が軽微とみなされ、厳重注意以外の処分は行われなかった[52]。その直後の7月場所では、14日目に日馬富士を掬い投げで下し、輪島を抜く15回目の優勝を果たした。また、46連勝を達成し、大鵬の45連勝を抜いて昭和以降では歴代3位の記録となった[53]。千秋楽も把瑠都を上手投げで下して全勝優勝を果たし、連勝記録を47に伸ばした。1場所が15日制で定着した1949年5月場所以降初となる「3場所連続15戦全勝優勝」という快挙も成し遂げた。年間3回の全勝優勝も初である[54]。, 9月場所は3日目で50連勝を達成。富岡八幡宮にある超五十連勝力士碑に名を刻むこととなった[55]。7日目には稀勢の里を押し出して54連勝とし、千代の富士の53連勝を抜いて昭和以降では単独2位となった[56]。14日目、自らの取組前に追う2敗力士が敗れたため、16回目の優勝が決定[57]。更に千秋楽、日馬富士を下し、4場所連続8回目の全勝優勝で双葉山、大鵬に並び、連勝記録も62とした。また自身がもつ、年度にこだわらない任意の場所の連続6場所での勝ち星記録86を更に塗り替え、87とした[58]。, 11月場所は初日に栃ノ心を上手投げで下し、江戸時代の大横綱・谷風に並ぶ63連勝を達成したが、2日目に稀勢の里に右上手を許してしまい寄り切りで敗れ、連勝記録として歴代2位[注 5]、昭和以降、横綱として歴代1位の記録となる63で止まった。このあと呆然とした表情で、報道陣に「これが負けか」とつぶやいている[59]。しかしその後は白星を重ねて14勝1敗で平幕の豊ノ島との優勝決定戦を制し、5場所連続17回目の優勝を達成した。また千秋楽の白星で「2年連続年間最多86勝」を樹立した[60][注 6]。後にこの連勝を止められた一番に関しては2019年の記事で「九州場所をもし全休して調整に専念していたら(休場を挟んだ記録という形でなら)連勝記録がもっと継続していたかもしれない」と冗談交じりに話している[61]。, 1月4日「白鵬横須賀後援会」が「宮城野部屋横須賀後援会」に名称変更し、新たに発足すること明らかになった。後援会関係者が「年末に師匠が交代し、今後は白鵬だけでなく部屋の後援会として発足させたい」。3代前の宮城野親方(元小結・広川)が横須賀出身だったことから、以前は部屋後援会として活動していたが、先代の宮城野親方(元十両・金親)が2004年に師匠になってからは白鵬の個人後援会になっていた[62]。, 1月場所は先場所からの連勝を再び延ばし、7日目に栃煌山を下して自身5度目の20連勝を達成するも[63]、11日目にまたしても稀勢の里に敗れ、連勝は23でストップ[64]。 白鵬 翔(はくほう しょう、1985年(昭和60年)3月11日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で宮城野部屋所属の現役大相撲力士、第69代横綱(2007年7月場所 - )。日本国籍[2]。, 本名同じ。帰化前はムンフバッティーン・ダワージャルガル[注 1](モンゴル語キリル文字表記:Мөнхбатын Даваажаргал、ラテン文字転写:Mönkhbatyn Davaajargal;日本相撲協会による公式表記は「ムンフバト・ダヴァジャルガル」[2])、モンゴル語での愛称は「ダワー」。, 身長192cm、体重151kg、血液型はA型。得意手は右四つ、寄り、上手投げ。好物は焼肉と納豆およびプレーリードッグ(食用として)[3][注 2]。嫌いなものはあんこ[4]、趣味は読書、チェス、テレビゲーム、ゴルフ。アジア初のユネスコ・スポーツ・チャンピオン[5]。, 父親のジグジドゥ・ムンフバトはブフ(モンゴル相撲)で、5年連続6度の優勝をした元アヴァルガ(大相撲の横綱に相当)で、モンゴル人民共和国代表としてメキシコ五輪のレスリング重量級銀メダリスト(モンゴル初の五輪メダリスト)となったモンゴルの国民的英雄である。母ウルジーウタス・タミルは元外科医でありチンギス・ハーンの流れを汲む家柄の出だという[6]。, モンゴル時代で思い出に残るのは小学生の夏休みであり、毎年1か月を伯父の牧場で過ごした。ゲルと呼ぶ移動式の住居で目を覚まし、井戸で水をくむ。馬に乗って羊の世話をし、夕暮れ時にはオオカミの襲来に目を光らせた。空腹時にはプレーリードッグ(正しくはマーモット。モンゴルではタルバガンと呼ばれている)を狩り、熱した石で、こんがり焼いて食べていたとのこと。リスに似たこの小動物も草原では大切なタンパク源であり、白鵬は「鶏の手羽先に似た味がしてね。大好物だった」と後に振り返っている。祝いの日には羊の丸焼きを頬張り、馬の乳を発酵させた馬乳酒を飲んだ。草原の食で腹を満たし、馬で駆け巡った日々は、しなやかな足腰の原型を作った。「あの経験がなかったら横綱にはなれなかった」と、白鵬は後のインタビューで遠い目をして振り返っていた[7] [8]。, 来日前にブフは10 - 12歳の時に遊びでやっていた程度で経験らしい経験はなく、バスケットボールに熱心に取り組んでいた[9]。15歳になったころ、兄のバットホヤグが柔道の教師になったがダワージャルガルは「柔道はイヤだ。どうしても相撲をやりたい」と固辞した。ムンフバトは以前からそのダワージャルガルの意向を知っていたようだが母タミルは普通に勉学を重ねて学者にでもなってほしいと願っていたためダワージャルガルの決意を聞いた際にはショックで言葉も出ず、しばらくは入門するかどうかを巡って滅多にしない夫婦喧嘩もしたとのこと。, それでもタミルは内心「きっと激しい稽古が待っている。経済的にも大きな苦労を知らず、のびのび育ったダワーが、日本での厳しい修業に耐えられるはずがない。きっと、つらくて戻ってくるに違いない」と考え、早々と帰郷すると予想して入門を許した。モンゴルの中等教育学校を卒業。ダワージャルガルは初来日からその後2年半に渡り一度も帰郷せず日本で相撲に打ち込んだ[10]。, 大相撲で活躍していた同じモンゴル出身の旭鷲山をつてに、2000年10月25日に6人のモンゴル人と共に来日[9]。大阪府内の摂津倉庫で相撲を習っていた(同社の相撲部には以前、後に幕内に上がる大飛翔も在籍)。共に来日した猛虎浪(立浪部屋)、千昇(式秀部屋)、大河(式秀部屋)らの入門が決まるなか、結局小柄だった白鵬を受け入れてくれる部屋は最後まで見つからなかった。, その失意の帰国前日12月24日、彼を哀れんだ旭鷲山が自らの師匠の大島(元大関・旭國)と会食中に相談し、大島は友人だった宮城野(元幕内・竹葉山)に受け入れを申し入れた[9]。当時の宮城野部屋は弱小部屋だった為に厳しいしきたりも少なく、育ちの良い[注 3] 白鵬には伸び伸びとやれる環境で結果的に良かったのだとされる。こうした経緯から宮城野が元十両の金親に代替わりしたのちも、熊ヶ谷を襲名して宮城野部屋付きとなった先代宮城野の指導を内弟子として受けた(後に熊ヶ谷は再度宮城野を襲名して白鵬の師匠に復帰する)。, こうして角界入りとなるものの、部屋の先輩力士に「若くてすらっとしている子」という条件で連れてこさせた少年を見た宮城野は、父親の実績を知る由もなく、その小柄な体から大きな期待はしていなかったといい、自らも小さな体で苦労して幕内まで昇進したので「若いから、何とかなるだろう」程度に考えていた[9]。しかし一方で、大きな手足と腰、柔らかい筋肉などから、もしかしたら化けるかもしれないと思い、入門してからの2か月間は稽古をさせず、毎日吐く程に食べさせ、牛乳を飲ませた[11]。, 宮城野部屋入門時から大関になるまで、宮城野横須賀後援会が横須賀市内で主催するサマーキャンプに毎年参加し、午前中は横須賀市大津の土俵で稽古を積み、午後は市内の福祉施設の訪問や商店街の夏祭り等で子ども達に胸を貸し、相撲体験を通して夢や感動を与えてきた[要検証 – ノート]。サマーキャンプは、大関となる2006年まで継続された。, 四股名は、横綱・大鵬と柏戸に因んで柏鵬(はくほう)とする案があったが、色白だったことから白鵬と付けられた(元幕内・千代白鵬と四股名が比較されるが、命名は千代白鵬が先)。2001年3月場所に初土俵を踏むが、番付に名前が載った翌5月場所は身体の小ささもあり3勝4敗の成績で、後の横綱としては異例の序ノ口での負け越しを経験する[9][注 4]。, しかし、入門当時身長175cm、体重68kgだった体は、食文化の違いを苦にせず大食漢だったことと熱心な稽古によって大きく成長し続けた[9]。急激な肉体の成長と才能の開花に歩を合わせるかのように番付を駆け上がり、部屋で稽古を付けていた光法は、「あの白鵬って子、一晩眠るたびに強くなっている。2 - 3年後には化粧まわしや白い稽古まわし(共に関取の象徴)を身につける身分になりますよ!」と驚いていた。, 実際、皆勤して負け越したのは前述の2001年5月場所と三段目時代の2002年7月場所(3勝4敗)の2場所だけで、これ以降は休場を除いて負け越していない[9]。相撲教習所時代は1度だけ寝坊して教習所に遅刻しそうになったが、遅刻しないように下駄を持って裸足で走って間に合わせた[13]。, なお、幕下時代に朝帰りをし、土下座し謝り許しを得ようとするも、師匠は激怒し破門を切り出したことがあった。この時に部屋付きの親方衆や兄弟子たちが師匠を諫めていなかったら、白鵬は引退に追い込まれ、後の横綱・白鵬は出現しなかったとも言われている[9]。, また、入門後しばらく経過した頃、父のムンフバトは部屋を辞めさせて鳥取城北高校へ預けたいと石浦外喜義に相談を行い、これに対して石浦は「大相撲は一度辞めたら二度と復帰できない」とはっきり言って断ったが、これによって白鵬は鳥取城北高校との縁ができた[14]。, 2003年11月場所では、東幕下9枚目で6勝1敗の好成績を上げ、関取の定員増もあり翌2004年1月場所に新十両に昇進し、翌場所、十両2場所目で12勝3敗の成績を挙げ追風海との優勝決定戦を制し優勝。十両はわずか2場所で通過し、入門からわずか3年での入幕となった。, 2004年5月場所で新入幕となる。19歳1か月での新入幕は貴花田(後の横綱・貴乃花)、北の湖、花田(後の大関・貴ノ花)に次ぐ当時史上4位の若さであった(外国人力士としては史上1位の若さ)。その場所、千秋楽まで単独で優勝争いの先頭に立っていた北勝力を立合いの変化で破り、星1つの差で追っていた同じモンゴル出身の横綱・朝青龍の「援護射撃」を果たし、自らも12勝3敗の好成績で貴花田の18歳7か月に次ぐ19歳2か月の若さで初三賞(敢闘賞)を受賞した。新入幕での12勝は、15日制になってから当時歴代3位タイ(現在は歴代4位タイ)。入幕を果たした際には「親方、一番強い人を倒したときの懸賞を持ってきます。待っていてください」と熊ケ谷親方と約束した。, 2004年11月場所11日目、白鵬は朝青龍を送り出しで破って初金星を獲得。その夜、この一番に掛かった懸賞を持って熊ケ谷親方の前にやってくると、「ここまで来られたのも親方のおかげです。受け取ってください」と差し出した。この懸賞は熊ケ谷親方の自宅の居間の一番見えるところに飾ってあるという。この場所は綱取りがかかっていた魁皇にも勝ち終盤まで優勝を争い、12勝3敗の好成績で初の殊勲賞を受賞した[9]。, 入幕1年目にして横綱最有力候補と目され、2005年1月場所は新三役(西小結)で魁皇、千代大海の2大関を破って11勝4敗の好成績を挙げ、初の技能賞を受賞した。3月場所は関脇に昇進し、直近の2場所で12勝3敗・11勝4敗の好成績を上げていた事から大関獲りの場所と目された。達成すれば貴乃花を上回る史上最年少での昇進となったものの序盤からまさかの3連敗で、終盤4連勝して8勝7敗と勝ち越しはしたものの、大関昇進を逃がした。, 同年7月場所では7日目まで6勝1敗と優勝争いをしていたが、中日の普天王戦で左足関節靭帯損傷及び内反捻挫の怪我を負い、初土俵以来初めて休場し翌9月場所では、平幕落ちした[9]。翌11月場所は、2場所ぶりに小結に復帰し栃東、魁皇の2大関を破り9勝6敗と勝ち越した。, 関脇に復帰した2006年1月場所では、初日から6連勝し、その後2連敗したが12日目に朝青龍を小手投げで破る。千秋楽では大関昇進で先を越された琴欧州に寄り倒しで圧勝し、栃東との優勝決定戦を待ったが、栃東が朝青龍に勝ち優勝決定戦にはならなかった。それでも13勝2敗の好成績を挙げ、2回目の殊勲賞を受賞した。この時初めて千秋楽まで優勝に絡んだ[9]。, 翌3月場所は、自身2度目の大関獲りの場所であった。この場所は初日から11連勝し11日目に全勝の横綱朝青龍との相星決戦で、左四つに組み合った後、左手で朝青龍の左ももを払いながらの上手出し投げで完勝し、大関昇進の目安といわれる33勝目をあげた。千秋楽では魁皇に敗れたが、優勝を争っていた朝青龍も栃東に敗れたため13勝2敗同士の優勝決定戦で再び朝青龍と対戦。左四つからの巻き替えあって右四つがっぷりの体勢になり、白鵬が両まわしを引き付けて寄ってくる瞬間朝青龍は右四つからの下手投げで白鵬を下した[15]。朝青龍に敗れて優勝は逃したが、技能賞と殊勲賞を獲得するなど高く評価された[9]。この一番はモンゴル国内において、瞬間視聴率は93パーセントを記録したとされる。, 場所終了後の3月29日、日本相撲協会は大阪市内で番付編成会議を開き、白鵬の大関昇進を満場一致で決め、理事会で承認された[9]。正使として友綱理事(元関脇・魁輝)、副使に春日山審判委員(元幕内・春日富士)が、大阪府堺市の西本願寺堺別院に派遣された。師匠の宮城野(元十両・金親)夫妻とともに紋付き袴姿で出迎え、「謹んでお受け致します。大関の地位を汚さぬように、全身全霊をかけて努力します。本日は誠にありがとうございます。」と昇進口上を述べた。, 自身の方が入幕は先だったのに大関昇進で先を越された琴欧州に対し、怪我(2005年7月場所の)さえなければ自分が先に大関だったという悔しい思いを晴らし、わずか2場所で追いついた。, 新大関で2006年5月場所は初日から4連勝し、5日目に雅山に突き落としで敗れたがその後は白星を重ねて14勝1敗の好成績を挙げた。本割で唯一負けた雅山との優勝決定戦で、取組前にかいた汗により雅山の突きが滑るという幸運にも恵まれて勝ち、新大関の勝ち星記録更新という快挙も成し遂げて初優勝を果たした。21歳4か月での初優勝は貴乃花、大鵬、北の湖に次ぐ歴代4位の若さだった。12日目の帰りの車の中で「君が代」を教わり練習し、初優勝を果たした千秋楽では君が代を歌った。優勝パレードの旗手は、兄弟子の光法が務めた。, 初の横綱獲りへ挑戦となった2006年7月場所初日に朝赤龍、9日目に雅山に敗れたが、その後順調に勝ち星を積み重ね、千秋楽ではここまで全勝の朝青龍に寄り倒しで土をつけ、4場所連続となる13勝以上の13勝2敗で場所を終えた。, 横綱昇進が有力視されたが、日本相撲協会の放駒審判部長(元大関・魁傑)は、朝青龍の独走を許したという理由で、理事会の招集も横綱審議委員会への諮問も行わず、横綱推挙は見送られた。千秋楽後の朝青龍の優勝インタビューの際、NHKのアナウンサーが白鵬の横綱推挙が見送られたことを朝青龍に伝えると、会場は大きなため息に包まれた。番付上、東横綱・朝青龍と東大関・白鵬との対戦が組まれるのは千秋楽であるため、そこまで優勝争いがもつれなかったという意味で「独走を許した」という表現となった(14日目の時点では横綱が14勝0敗で優勝決定、白鵬が12勝2敗)。横綱昇進を見送られた白鵬は、モンゴルの温泉で疲れを取るため帰国した。, 翌9月場所で2度目の綱獲りを目指したものの、初日に稀勢の里に敗れ、その際右膝を負傷した。12日目でようやく勝ち越すが、その後千秋楽まで3連敗して8勝7敗に終わり、横綱への挑戦は白紙に戻った。, 翌11月場所は、場所直前の11月1日稽古場のある公園内の階段でトレーニング中つまずき、左足親指を怪我、翌日、左母趾基節骨遠位端骨折と診断され福岡市内の病院で手術(ボルトを入れ4針縫う)し入院。9日に抜糸し退院したが、同日宮城野親方が会見を開き、怪我の回復を優先させる事から休場を発表、初の全休となった。次の2007年1月場所は、自身唯一の大関角番であったが、12日目で勝ち越して角番を脱出、10勝5敗と二桁勝利を挙げた。, 3月場所前の2007年2月に当時学習院大学に在籍中の学生であった徳島県徳島市出身の和田紗代子と結婚。このとき夫人は第1子を身ごもっており、同年5月10日に第1子(長女)が誕生した[9]。義父は実業家で、元朝青龍全国後援会長の和田友良。, 3月場所は千秋楽の優勝決定戦で、立合いの変化で朝青龍を下し、13勝2敗で2度目の幕内最高優勝を果たしたが、日本相撲協会や横綱審議委員会ではその相撲内容が十分でないとの意見もあった。それでも3度目の綱獲りだった翌5月場所では、初日から14連勝で14日目で優勝を決め、千秋楽も堂々たる相撲振りで朝青龍に完勝し、自身初の15戦全勝優勝を達成。日本相撲協会からの諮問後の横綱審議委員会でも「満場一致」の横綱推薦となり、念願だった第69代横綱への昇進が決定した[9]。なお横綱土俵入りは熊ヶ谷親方の推薦もあり、熊ヶ谷の入門時の師匠である元横綱・吉葉山と同じ不知火型を選択(白鵬自ら5月場所の全勝優勝インタビューで「部屋の大先輩である横綱吉葉山と同じ不知火型をやります」と宣言していた)[16]。不知火型を選んだ横綱はその多くが短命に終わってきたが、後述の通り白鵬はそのジンクスを払拭する活躍を見せることになる。土俵入りの指導は同立浪一門で、元横綱・旭富士の安治川親方(当時)が行った。土俵入りはせり上がりの際、四股を踏む前と最後の締めの部分の腕の所作に大きな特徴があり、前者は翼をピンと張るように切れのいい動作を、後者は翼を広げるようなゆったりとした構えを見せる。, 7月場所は横綱として初の土俵。16連勝の中で初日を迎え、白星を重ねていったが、10日目に琴光喜に敗れて連勝は25でストップした。, 12日目の魁皇戦では、土俵際で魁皇が突き落としたが行司・木村庄之助の軍配は白鵬に上がった。これに物言いが付き協議の結果取り直しとなった。

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